「多言語主義」、あるいは「複言語主義」?


Preface

私たちが学校教育において「外国語」というとき、なぜ英語だけがこんなにも絶対的な存在感を示し、また四能力全てによく習熟しなければならないのでしょうか。多言語がせめぎ合う欧州から生まれた「複言語主義」をベースに、多様性の時代の言語教育を再考します。

この記事は『実用性を超えた、言語教育のもう一つの意味とは』の後編です。前編はこちらから

4. 多言語主義と複言語主義

前編の記事では、大学入試の話からはじまり、CEFRについて、またCEFRの中核概念となる「複言語主義」について簡単に説明しました。大事な概念なのでもう一度簡単に説明させていただきますが、「複言語主義」とは、個人のなかに複数の外国語の能力がさまざまな形で存在している(日本語を母語とし、英語は会話がある程度できる、フランス語は読むことができるがあまり話せないと言ったように)と考える立場をさします。人はコミュニケーションをする際にその自分がもてる言語能力・知識を総動員して用いているという考え方です。 

複言語主義とよく似た言葉に、「多言語主義」というのがあります。CEFRによると多言語主義は、「複数の言語の知識であり、あるいは特定の社会の中で異種の言語が共存していること」です。具体的には、ある学校や教育制度において学習言語の選択肢が多様である状態などを指します。ヨーロッパの学校の多くは、母語以外に2つの外国語を習得することを推奨しており、多言語主義を取っているといえるでしょう。

5. 英語以外の言語を学ぶべきか

この議論を踏まえると、多言語・多文化を前提としたヨーロッパ社会で生まれたCEFRには、生涯にわたる学習を通してその言語文化間の相克を乗り越えようとする背景があります。そのCEFRの主旨を、日本の大学入試という非常に限定的な文脈で採用することには無理があることがわかります。また、CEFRは「英語一強」のグローバリズムに反して、すべての言語に同じ価値を持たせようとする試みです。一方、日本で平成30年度に告示された新学習指導要領(外国語・高等学校)には、「外国語やその背景にある文化を,社会や世界,他者との関わりに着目して捉える」との記述があるにもかかわらず、その実態である日本の外国語教育がほぼ英語一辺倒であることにも矛盾があります。いかに英語がリングァ・フランカ(国際共通語)として機能しているとはいえ、言語と文化が不可分である以上、中等教育における英語教育は、英米圏のヘゲモニー拡大に無意識に貢献しているといわれても仕方ない状況です。

かつてこれまで、ある言語がこんなにも支配的に、地球規模で大きな覇権を持った状況があったでしょうか。英語が果たす世界共通語としての機能とその利便性に疑いを挟む余地はもはやありません。しかし、英語学習の偏重は、英語が言語としての相対的な優位性を持つという無自覚な過信につながるおそれがあります。私たちは複数の外国語を学ぶことを通じて、特定の言語の優位性という幻想を捨て、異なる存在を尊重する態度を育てるだけでなく、エスノセントリズム(自文化中心主義)に陥ることをふせぐことができます。「複言語主義」の立場で外国語を教えるということは、外国語そのものの能力を身につけるだけではなく、言語と文化の関係やその差異を尊重することの重要性を教えることにもつながります。

6. まとめ

ここまで、CEFRの生まれた背景や複言語主義、また英語以外の外国語を学ぶ意義について見てきました。よく、「6年間学校で英語を学んできたのに英語を話すことができない」という自嘲気味な声を聞きますが、それは果たして大きな問題でしょうか。いくら「グローバル社会」の重要性が謳われていても、まだ日本で「英語を話せなくては生きていけない」事態にはなっていません。以前と比べて仕事で英語を使う人が増えたことは違いありません、いまだに日本は日本語しか話せなくても十分に生活が機能します。日本在住の外国人たちも増えてはいますが、かれらのほとんどは、英語以外の言語を母語としています。

明治期の「脱亜入欧」のトレンド、または戦後一時的に米軍の占領下にあった日本の状況を考えると、英語(あるいは他のヨーロッパ言語)が公用語になっていてもけっしておかしくはない状況でした。母語以外の言語使用を強制され、自分の言葉を奪われた無数の国々・人々に思いを馳せてみてください。もちろん私は外国語で書かれたリソースの獲得や他者理解を目的とした外国語学習の必要性を確信しています。しかしその一方で、日本がそのような事態に陥らなかったことーーー日本語での生活に支障ないのはもちろん、母語で基本的な学問が出来るということーーーは、祝福すべきことのひとつではないかと思うのです。また、一つの外国語をある程度のレベルまで習得するのに要する時間を考えると、生活上・職業上の必要性がない状況において英語能力の向上を担保することはなかなか現実的ではないでしょう。「英語が話せない」ことは、そこまで恥じるべきことでもないのかもしれません(だからといって、誇るべきことでもないのですが)。

CEFRや複言語主義は、外国語そのものが「役に立つ・立たない」という有用性論や、そのものの運用能力を超えて、音声にせよ、あるいは文字にせよ異なる言語で語る他者を理解しようとする態度を育むことをもっとも重視しています。外国語の学習過程において、学習者を「異質なるもの」へ開こうとする姿勢には、日本の外国語教育として学ぶものがあるのではないでしょうか。自分の母語でも、「バランスの良い4技能」を身につけている人などいません。能力に日本が「グローバル社会」を標榜していくのであれば、英語が重要なことは言うまでもありませんが、英語以外の外国語の学習が国内でも促進されるように制度を整えていく必要があるでしょう。

また、英語以外の外国語を学ぶ機会があることは、もし英語に苦手意識を感じたとしても、他の言語であれば積極的に学びたいと思える学習者もいるかもしれません。新たな言語を学ぶことで、自分にとってより学びやすい言語学習の方法を身につけることができるかもしれません。たとえば韓国は日本に地理的にも近く、日本国内に在住している韓国人も多いため、身近な言語だと言えるでしょう。日本語と韓国語は語彙の点で類似が見られ、欧米諸国の比較して学習も容易であるという話はよく耳にします。私たちの国は周辺国に負の遺産を残してきた側面もあり、現在にまで禍根を残しています。個人のレベルで、私たちがそうした他の国、文化、人々との関係を改善しようとしたとき、その最たるものは言語を学ぶことであるのかもしれません。中等教育の現場でも、試験で出来るだけ高い点数を取るということ以上に大事なことがあるということを、また、母語以外の言語・文化を学ぶことそのものが、開かれた世界市民としての態度を育成することに寄与することを教えていく必要があるでしょう。

▶︎参考文献
  • 大木・西山(編)「マルチ言語宣言―なぜ英語以外の外国語を学ぶのか」京都大学学術出版会(2011)
  • クロード・トリュショ(著)、西山・國枝・平松(訳)「多言語世界ヨーロッパ」大修館書店(2019)
  • 東條「CEFRと日本の英語教育:一考」大阪女学院大学(2011)
  • 吉島・大橋(訳・編集)「外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠」 朝日出版社(2014)

 

<meta charset="utf-8">小林 慶子
小林 慶子

専門分野:外国語教育
慶應義塾大学文学部卒業後、同大学院政策・メディア研究科修了。高校で英語、ドイツ語の教員を勤め現在は民間の会社に勤める。関心は外国語教育、マルチリンガル教育等。

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