錯覚の哲学第二講_結城夏嶺

家族は似ている。顔立ちや背格好だけでなく、雰囲気や話し方も似ている。血のつながりのない養子やペットも似ている。一緒に過ごしてきた記憶がそう思わせるのだろうか。記憶が絆をつくるのだろうか。

「いつもは少しも気にかけていない空の色が、どうしてか、不意に彼女の気持ちを明るくした。何処かへ行きたい。何処か遠くへ。日の暮れる前の僅かばかりの残りの光を孕んだ空の色は、今も、バスの腰掛けで揺られている彼女の心の中に垂直に降下し続け、そこで水平にゆっくりと拡がって行き、似たような風景を「何処か」に探すことを彼女に強いた」〜忘却の河〜(福永武彦)

淡い光が、縦から横へと滲んでいく。


前回、私たちは言語と共同体の密接なつながりについて確認した。言語自体に本質的な規則がないことから、私たちは所属している共同体からの “視線” に依ってコミュニケーションするしかない。共同体が審判・観客として機能することで突飛な言動が排除され、安定したコミュニケーションを行うことができる。これは、思想家・東浩紀の「訂正可能性の哲学」でも紹介された、ソール・クリプキという哲学者の理論である。

東は、この論考でさまざまな哲学的操作を駆使しつつ、共同体の「訂正可能性」という概念について論証している。ここでは、あえてそれを逐一解説することはしない。注目すべきは、東が、共同体はそのアイデンティティを「訂正」し続けていくことで持続することができると指摘したことだ。これは、まさしく共同体の本質を言い当てていると思う。東はこれを主に言語哲学によって解明しているが、私は「錯覚」で解明してみよう。そこで大きく参考になるのが、社会心理学者・小坂井敏晶の「民族という虚構」だ。この本では、民族を成立させている「虚構」について論じられており、それを支えるさまざまな「錯覚」の例が紹介されている。以降、本連載に必要な「錯覚」の多くをこの本から引用させて頂いてることを予めご了承いただきたい。

共同体は、さまざまな錯覚が折り重なってできている。その一つ一つを解きほぐしていくことで、「錯覚」による共同体の「訂正可能性」、ひいてはそれを支える「つながり」が明らかになるだろう。

– 選択されたアイデンティティ

私たちは、ある一定数以上の数からなる集団を認識する際には、どうしても分類・カテゴライズをせずにはいられない。「日本人は〇〇な性格だ」や「あの会社に行ってる人たちはみんな〇〇な人だ」といった具合に。このカテゴライズという行為の中には、錯覚が潜んでいる。

たとえば、AとBという二つの集団が作られたとしよう。このとき、人はAとBの差を強調し、AとBそれぞれの内部の差は無視しようとする。これは民族間の争いをみればよく分かる。とある民族間で争いが起きれば、お互いに「我々」と「彼ら」がいかに違うかを強調すると同時に、「我々」がいかに同じなのかを強調するだろう。たとえお互いの民族には多くの共通点があり、むしろ「我々」の間の共通点が少ないとしてもだ。あるいは、「我々」の間の差異や共通点を、無理矢理にでも捏造することさえあるだろう。それでも、集団の「絆」のためには受け入れられてしまうことも多い。このような現象は、まさしく錯覚としか言いようがない。だが、本来多様なはずの人間を無理にカテゴライズしようとすれば、こうした錯覚は免れない。

このようなカテゴライズの根拠になるものは、その集団の中心的価値と呼ばれる。それは、他の集団との差異=境界となるものだ。あるいはアイデンティティと言ってもいいだろう。共同体の中心的価値は、決して永遠不変のものではない。それは、「我々」にとって新たな「彼ら」が現れるたびに適時、選び取られるものだ。たとえば、企業でもある主力商品がそこの中心的価値(アイデンティティ)だったのに、それが一般化して他社と差異がなくなると今度は別の商品に、もしくは商品以外にも新たにアイデンティティ(差異)を見出すようになるだろう。これは、民族のような長大な歴史を持つ共同体であっても同様だ。

カナダのケベック州では、かつて圧倒的な多数派を占めていたカトリックがアイデンティティとして存在した。すなわち「カトリック対プロテスタント」という、宗教を軸にしたカテゴリーが作られ、それが中心的価値としての働きを担っていたのである。しかし、歴史的な潮流のなかで宗教のパワーバランスは変化し、今や「フランス語」という言語が新たなアイデンティティとして選ばれている。宗教や言語といった、民族・国家の普遍的なアイデンティティと思われるものですら、他の共同体との差異=境界を作り出すために移ろいゆくものでしかないのだ。

□ ◆ □

– ゆるやかな意識のメタボリズム

重要なのは、選び取られた中心的価値が守られているという感覚だ。「中心」が守られている限り、それ以外の「周辺」がいくら変わっても共同体の本質は変わらない。そのように思えるため、容易に変化を受け入れられる。そうして「同じ我々」だと錯覚したまま内外で起こるさまざまな変化を受け入れていけば、また新たな差異=境界を作り出すために別の中心的価値(アイデンティティ)が生まれる。共同体のメンバーである私たち人間が変化し続ける以上、共同体も新たに差異=境界を作り出すためにそのアイデンティティを訂正せざるを得ないのだ。

ここで大事なのは、その変化がゆるやかであればあるほど、錯覚がより自然に機能するということだ。その変化があまりにも急激であれば、錯覚は醒めてしまう。これを小坂井は次のように解説する。

とある漁村の漁師のおじいさんが木の舟を長年、愛用している。木の舟なので当然、さまざまなところが傷み、ときどき新しい木材で修理しなければならない。漁師は年をとり、息子に舟を引き継がせる。その息子も舟を愛用し続け、孫の代へと引き継がせる。こうしてくうちに、舟の材料はすべて入れ替わるが、孫からするとその舟は最初のおじいさんの舟と同一のものだと思うだろう。しかし、もしこの舟を孫の目の前で瞬時に壊し、まったく同じ構造になるように再び舟を新しい材料で作ったらどうだろうか。そうして「おじいさんの舟を新しくしてやったよ」と言っても、孫はそんなものは複製した偽物だと憤慨するだろう。100年かけて徐々に材料を替えようが、一瞬で替えようが、すべての材料が新しくなったことには変わりない。しかし、入れ替わりの早さひとつで、まったく違った印象を与える。もし、材料の入れ替わりがゆっくりと徐々に行われれば、たとえ最終的に別の形の舟になったとしても、孫は同じおじいさんの舟だと認識するだろう。

以上のことから分かるのは、変化がある程度ゆっくりと徐々に生じるなら、たとえ結果的に大きな変化があっても我々は同一性を錯覚するということだ。これは共同体にも当てはまる。日本では毎年多くの人が死亡し、同時に多くの人が生まれている。日本人は100年もすればほぼ全員が入れ替わり、それから少し経てば「日本人」の構成要素の総入れ替えが完了する。だが、この入れ替わりは一気に行われるのではなく、徐々にゆっくりと行われるため、相変わらず「日本人」の同一性は保たれるのだ。

▷ ▼ ◁

– 「歴史」を終わらせるエビデンス

以上、大まかに要約したが、共同体のアイデンティティもゆっくりと徐々に変化していくことで、「同じ」共同体であるかのように錯覚できることが分かる。小坂井が示したこのメカニズムにはまったく異論はない。とくに、「死」によって構成員の入れ替わりがゆっくりと行われることで、共同体のアイデンティティを維持できるというのは面白い。だが、私は「死」が共同体において果たす役割はそれだけにとどまらないと思う。というより、もしかしたら共同体は「死」がないと形成できないし、それ以上に持続するのが難しいのではないだろうか。

「死」は、私たちにある特別なつながりをもたらす。それは普段は見えないが、共同体形成に決定的な役割を果たしている。そのヒントを得るために、ここでSF作家ケン・リュウの「歴史を終わらせた男」という作品を紹介しよう。

この作品では、物理学者・桐野朋美が発見したとされるボーム-キリノ粒子により、実際に起きた過去を体験できる装置が開発されている。彼女のパートナーであるエヴァンはその装置を使い、ある歴史の闇を暴こうとする。中国系アメリカ人であるエヴァンが挑むのは、日本の731部隊だ。731部隊とは、第二次大戦時の日本陸軍の細菌戦部隊である。この部隊は当時、中国人捕虜たちを丸太と同等であるとして「マルタ」と呼び、残虐な人体実験を繰り返していたとされる。生きたままの四肢切断、ペスト等の細菌に感染させた後にそのまま解剖、凍傷実験…そのあまりの凄惨さに、現在では歴史のタブーとされ、今なお論争が続いている。エヴァンはボーム-キリノ粒子によるタイムトラベルで、731部隊に関する「エビデンス」を持ち込み、この歴史の闇に終止符を打とうとしたのだ。

だが、このエヴァンの決断にはさまざまな困難が伴う。タイムトラベルはその技術の制約上、一人が一度だけしかできない。そこで犠牲者の親族を選んだエヴァンの判断は正しいのか。それでは歴史というものを、個人的な悲しみの感情によって解釈してしまうことにならないか。今さら責任を問うことは難しいのに、戦時中の悲惨な記憶を呼び起こして、争い事を起こす必要があるのか。なんら証拠を持たない個人が語る歴史の「証言」をどこまで信用していいのか。

こうしてさまざまな立場、利害関係から多くの人がエヴァンを批判する。物語の終盤、追い詰められたエヴァンはついに自殺してしまう。それだけでなく、世界各国の政府はタイムトラベル装置に反対し、ついには装置を停止させてしまう。その反対国の中には当初、タイムトラベル装置の利用に賛成していた国もあった。その国々は、タイムトラベルが自国に及ぼすであろう影響が明らかになるにつれ、態度を変えたのだった。

なぜ多くの国々はタイムトラベルに反対したのか。それは、国家が一筋縄ではいかないような、複雑で多様な歴史を持っているからだ。もし、タイムトラベルが続けられたなら、自国民をまとめている「神話」にとって不都合な事実が現れ、思わぬ崩壊をもたらすかもしれない。疑いようのない「事実」は混乱をもたらし、「歴史」を終わらせてしまう。各政府は、それを恐れたのだ。共同体の「歴史」は忘却されなければならない。いや、より正確に言うなら、「曖昧」でなければならない。

本来、私たちは「一つ」ではない。思想もルーツも、本当はなにもかもが違う。そんな私たちが共同体のアイデンティティとして共有できるものは、必然的に曖昧なものでなければならない。しかも、ただ曖昧なだけではいけない。それは、常に変化し続ける人々がその都度、現在の自分の”視点”から再構築できるものでなければならない。私たちは、過去を常に”現在から”振り返って解釈する生き物だからだ。たとえば親との思い出も、子どもであった自分、親になった自分、何者かになった自分…その時その時の自分で振り返れば当然、親との思い出の”風景”はその都度変わる。過去は、変化し続ける人間の現在の”視点”と不可分である。それは共同体の場合でも同じだ。だから「歴史を終わらせた男」でも、たった一人の、一回きりの過去に関する「証言」に対して毀誉褒貶が起こり、混乱が生じた。どれだけ過去の「事実」を見てきたと言っても、それは現在の人々からの解釈、”視点”から逃れることはできない。

◯ ● ◯

– 時間的立体としての共同体

このように、共同体のアイデンティティは多様な人々から常に解釈され、訂正され続ける。だから、それはグラデーションがあり、解釈の幅も受け入れられるような曖昧なものでないといけない。共同体において、そうした曖昧性を持てるのは、「歴史」や「伝統」といったタテのつながりだけである。

タテのつながりは、死者によって作られる。死んだ人は生き返らない。だからそのつながりは曖昧になっていく。しかもそれはさまざまな人によって受け継がれながら、多様な解釈によって紡がれてきている。タテのつながりは、一本の糸のように見えて実は、何本もの糸が撚り合わさってできている。もし、ボーム-キリノ粒子や不死の人間が存在すれば、過去に関する「エビデンス」が即座に持ち込まれ、曖昧なタテのつながりはほどけてしまう。「エビデンス」は共同体にとって”不都合な真実”となりかねない。錯覚によって生まれたアイデンティティは、曖昧だからこそ錯覚されつづけ、共同体が持続するのだ。

近年、「開かれた共同体」を目指してさまざまな運動が起きている。だが、それは往々にして、同時代のヨコのつながりばかりを意識したものになりがちだ。ヨコのつながりを強調するような価値観では、大きな共同体を作ることができない。無理にでもそうしようものならば、たちまち「エビデンス厨」が湧き出し、分断が生まれるだろう。ヨコのつながりばかり強調するSNS的な連帯がうまくいかないのは、アイデンティティの曖昧さが許されず、錯覚を醒ましてしまうからである。私たちは、曖昧なタテのつながりを錯覚するからこそ、ヨコのつながり(共同体)も錯覚し、持続させられる。ここに欠けているのは、そのように時間的な立体として共同体をとらえる視点だ。

■ ■ ■

– 「曖昧さ」により一新される記憶の倫理

ここまでアイデンティティの曖昧性が大事だと主張すると、それは無責任ではないかと思う人もいるかもしれない。共同体のタテのつながり、すなわち歴史はハッキリと「記憶」して正しいエビデンスを作るべきだ。また、場合によっては正しい「忘却」によってお互いのわだかまりをなくすべきだ。そのような「記憶の倫理」はどうするのか、と問うべきなのではないか。これに対して私は、なんとなくぼんやりとあるものの、確かなものではないような、そんな「記憶と忘却」の中間とも言える “曖昧さ” だからこそ成り立つ「錯覚の倫理」があると思っている。最後に、その可能性を感じさせる、「記憶と人文学」(三村尚央)にて紹介された例をみて今回は終わろう。

広島の高校生たちが、原爆被爆者の体験を絵画として描く「原爆の絵」というプロジェクトがある。これは、被爆者たちが高齢化するなか、被爆の実相を絵画として後世に残そうという試みである。生徒たちは、ペアになった被爆者たちの話を聞きながら、産婆役となって絵を仕上げていく。だが、70年以上も昔の出来事であるため、被爆者たちの記憶は曖昧なところも多い。さらに、被爆という想像を絶するトラウマ的な体験を思い出さなければならないため、うまく想起できるとも限らない。困難は、高校生側にもある。被爆者の語りには「ゲートル」や「モンペ」といった、馴染みのないものも出てくるため、その都度調べる必要がある。また、原爆投下直後に「水を求めて取っ組み合いをしている人たちをどう描くか」など、実際に見たことのない壮絶な光景を、平和な時代に暮らす高校生が表現しなければならない。被爆者と高校生は対話と調査によって、ときにはお互いの想像力で補い合いながら絵を完成させる。そうして出来た絵は “それっぽい” ものになる。それは、当時の体験の正確な復元とは違う。だがもちろん、この絵の価値はそこではない。彼らは、協働作業によってお互いが記憶を追体験し、再構築していった。そのような形でしか達成できない深いコミットメントがある。

ある原爆絵の事例で、被爆者として描かれた少女が、それを描いた女子生徒本人に酷似していたことがあった。描いた生徒自身はそのことをまったく意図しておらず、教諭や友人たちに指摘されて初めて気づいたという。これについて三村は、「被爆者が『地獄のようだった』という光景を鮮明に視覚化するためにコミュニケーションを重ねていった結果、被爆者の記憶へと深く入り込んでいって、それを追体験したのではないだろうか」と推察している。確かなエビデンスだけで絵を描こうとすれば、そこに自分が入り込む余地は一切ない。それは、他者の経験へと潜っていくことを妨げかねない。他者への深いコミットメントは、私たちの記憶が曖昧だからこそ可能になるのではないだろうか。

ハッキリとした記憶で他者とのコミュニケーションを寄せ付けないのではない。完全な忘却でコミュニケーションの機会をなくすのでもない。曖昧な記憶だから対話をし、想像力を働かせることで自らの記憶と錯覚して混ざり合い、自分事として引き受ける倫理が生まれる。まるで糸と糸が撚り合わさって一本の糸になるように。そしてそれは後世にも引き継がれ、また同じように新たな錯覚の「糸」を紡いでいく。

このような倫理の在り方は、私たちに大きな示唆を与えている。人の倫理や社会は、正しく記憶したり、忘れたりしようとするような人の自発性だけではつくれない。死、錯覚、曖昧性…そのような人の手の及ばない外部が必要となる。

なぜならこの外部こそが、私たちに「贈与」をもたらすからだ。

To Be Continued.
(Next discussion to be posted by 31st, July, 2022)

結城 夏嶺
結城 夏嶺

吟遊の思想家。共同体のメカニズムから、責任論、哲学における「語り手」の問題まで、幅広い思想を展開する。『錯覚の哲学』を連載。

Scroll to Top