言葉の視線に操られる - 錯覚の哲学

血をまき散らしてすまない─── 伝説的なブラックメタルバンド・メイヘムのボーカルだったデッドの遺書の最初の一文である。1991年4月、彼は手首と喉を切り裂いたあと、ショットガンで頭を撃ち抜いて自殺した。その時のデッドの実際の遺体を写真におさめ、レコードのジャケットにしたのが当時、メイヘムのリーダーだったユーロニモスという青年だ。これを機に、彼は一気にカリスマとなり、メイヘムは悪魔的なバンドとして君臨し、「インナーサークル」という一種の共同体を作り上げた。

このインナーサークルでは、自らの邪悪さを競い合う風潮があり、過激な行為はどんどんヒートアップしていった。流血を伴う過激なステージパフォーマンス、教会への放火、殺人事件……これら数々の凶行の中心にはいつもユーロニモスがいたとされる。まさに狂人としか言いようがない男だ。

しかし、そんな彼の半生を描いた「ロード・オブ・カオス」という映画は、ユーロニモスの異なる一面にスポットライトを当てている。劇中での彼は、ごくふつうの青年であり、純粋に好きなメタル音楽にのめり込んでいるだけだ。狂気的な振る舞いは、自分のキャラを演出するため、またバンドを有名にするための「演出」だったというのだ。

だが、そうして狂人のふりをする彼の周囲には、次々と本物の狂人たちが集まってくるようになる。彼は、その「本物」たちが起こす数々の事件に内心、恐怖しながらも「クールだ」と虚勢を張り続け、インナーサークルでの「狂人チキンレース」に巻き込まれていく。もう引き返せないところまで来てしまった彼はラストシーンを前に、「こんなことになるとは…」と呟き、涙を流す。もう、カリスマ・ユーロニモスというキャラを演じるゲームをやめたかったのだ。やがて彼は、かつての仲間から偽物のカリスマとして、身体を執拗に刺されて無惨に殺される。皮肉にもこの事件によって、ユーロニモスは本物の伝説となったのであった。

共同体の中でカリスマを演じるあまり、後戻りができなくなってしまったユーロニモスの半生は、愚かだったといえよう。しかし、彼に悲劇をもたらした「インナーサークル」は、他方で彼にカリスマとしての「居場所」を与えていたことも否めない。その引力の力強さからは、個人と共同体とがいかに分かち難く結びついているかが推し測られる。彼の愚かさは、人間という存在が共同体とは不可分だからこそ生じたものなのだ。

「共同体」は人が「居場所」をつくるために不可欠のものである。人間は一人で「居場所」をつくることはできないからだ。だからこそ、個人の「居場所」を考える前に、まず私たちはこの「共同体」がどのようなものなのかを解明しなければならない。また、それによって、私たちを縛り付け、ユーロニモスを死に導いた「共同体」の、別の可能性も見えてくるだろう。

─ 「石を拾って」の定まらない焦点

辞書によると、「共同体」とは「人が地縁・血縁・精神的結合などによって自然に形成した社会」とある。この言葉が意味するところは多岐にわたるが、とりあえずは自然に発生した何かしらの「つながり」が重要なはたらきをすることは分かるだろう。その中で、どのような性質の「つながり」に着目するかによって、その集団の属性が明らかになる。たとえば、血縁に着目すれば家族、国籍に着目すれば国民、血統に着目すれば民族という属性が見えてくる。民族や国民といったさまざまな集団は、どの「つながり」に着目したかによって表される人類の部分集合に過ぎないということだ。

前回の序文で紹介したバルバラ・カッサンは、「ヨーロッパ人、それはヨーロッパにノスタルジーをもつ者のことだ」という、実に印象深い言葉を紹介している。これは先の辞書の定義にもある「精神的結合」に着目した部分集合を表していると言えよう。共同体とは、どこまでも一時的で、環境依存的で、「かっこ付き」の視点であり、それが意味するところは本質的に、それ以上でも以下でもない。そして、私たちは「言語」を使ってコミュニケーションをする以上、なにかしらのつながりを持ち、共同体に属さざるを得ない。

そんな共同体と言語の関係を知るために、まずは私たちの日常において、言語がどのように働いているのかを考えてみよう。具体的には、「『言葉だけ』によるコミュニケーションは可能か?」という問いを考えてみようと思う。

ここからは、少し頭を柔らかくして考えてみてほしい。まず、誰かが「石を拾ってきて」と言ったとする。「石」や「拾う」などの単語の意味を互いに共有しているとすれば、相手は即座に「石を拾ってくる」ことを指示されていることに気づくことができる。しかし、このあまりにも常識的だと思われていることは、単語の意味する内容を共有できているからこそ可能なことだ。そうでなければ、「石を拾ってきて」というシンプルな言葉も、定まった意味を持つことができなくなる。この言葉を補完するものは、文脈と経験だ。このふたつがなければ、人と人との間には非常に単純なコミュニケーションすら成立しない。

「石を拾ってきて」という言葉は、もちろん普通に考えるように、河原の石を拾ってきてほしいのかもしれない。しかし、もしかすると「石」という名のネコを拾ってきてほしいのかもしれない。はたまた、スパイたちが暗号として「石」という言葉を使っているのかもしれない。言葉のみに頼ると、実はこれらのどの可能性も捨てきれないのだ。

しかし当然、この問題は、拾ってきてもらう対象を指差したり、いつもどうしてるかを記憶していたりすれば、すぐに解決する。言い換えれば、文脈と経験から言葉を解釈しているということである。そのように何かしらの文脈や経験の力を借りない限り、言葉の解釈はいつまでも定まらない。

コミュニケーションにおいて、「石を拾う」という言葉そのものを分析しても意味はない。むしろ、その言葉が発された状況から判断するしかないのだ。私たちは、意識せずとも、日常生活の中でこのことを実践している。哲学者のウィトゲンシュタインは、そのような状況を「言語ゲーム」と呼んだ。

彼はこの現象を、子どもの遊び(ゲーム)になぞらえて説明している。子どもたちの遊びを観察していると、その内容がアメーバのように自在に変化していくことが少なくない。最初は遊具で遊んでいた子どもたちは、自然と集まっていくうちにかくれんぼをはじめ、それがいつしか鬼ごっこになる。果ては誰が持ち込んだか分からないボールを使って、いつの間にかサッカーになっている。ただし、曖昧なルールにまかせて、それもやがてハンドボールのようなものになり代わっていく。これらの遊びの移り変わりは一見、一貫性がなく無茶苦茶に思える。しかし、子どもたちにとってはすべて等しく遊び(ゲーム)として成立している。子どもの遊びとはそういうものだ。

ウィトゲンシュタインは、「大人」が「論理的」に行うものだとされていたコミュニケーションも、本質的にはこうした子どもの遊びと同じ性格を持っていると指摘した。

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─ 言葉の軽さを笑い飛ばして

明確なルールもなく、なぜそれが成立しているのかは誰にも分からない。しかし、みながそれを受け入れるから、ゲームは成立してしまっている。あるいは、成立してしまっているから、人々はそのゲームを受け入れているのかもしれない。このような言語ゲームの中には、なんら本質的なルールは存在しない。にもかかわらず人々のコミュニケーションは、文脈と経験、つまりこれまでに築き上げた「生活の流れ」をベースとして成立するのである。

このコンセプトは、哲学史に大きな衝撃を与えた。哲学者はしばしば、言語には本質的なルール、原理なるものがあり、言語そのものが意味を持つという「本質主義」に傾倒することがあるからだ。つまり、「生活の流れ」を無視して言語そのものだけで意味が成り立つような、究極の言語理論を追求し、それこそが言語の本質であるかのような哲学的妄想に陥ってしまうことがあるのだ。

もちろん、こうした議論は極端な条件での思考実験としてのみ成り立つものであり、一種の言葉遊びに過ぎない。しかし、哲学の世界のみならず、日常生活においても人はあっけなくこの言語本質主義の罠に陥ることがある。その典型がSNSである。

SNSはなんの文脈も共有していない者同士が「事故」のように出会う場でもある。そこでは、コミュニケーションの土台が底抜けしたような珍妙なやり取りが散見される。例えば、次のようなやりとりだ:

A「東京は北海道よりも暖かい」

≫ B「北海道のほうが暖かい日もあるぞ」

そのほかにも、「中国は共産主義国家である」といえば、たちまち「お前は共産主義に賛成するのか!」といった「クソリプ」も飛んでこよう。もちろん、これは単に事実の指摘と価値判断を取り違えた”おっちょこちょい”である。このようなやり取りは、言葉をなんの文脈もなく思い込みで解釈しようとしたり、バカ正直に字面通り捉えたりしないと起こり得ない。裏をかえすと、文脈を共有できてさえいれば、このようなすれ違いは起こらないはずだ。

言語そのものには本質的なルールがなく、原理的にはどのような意味も持ちうる。そのような言語の特徴は、コミュニケーションを無限に後退させてしまうこともできてしまう。たとえば、私が「犬が好き」だと言ったとする。それに対して別の誰かが「そもそも “好き” とは何か?」と返す。私がそれに返答すると今度は、「なぜ犬なのか?」、「”好き”という感情は実在するのか?」、「分類学上の犬とは何か?」「そもそもあなたは実在するのか?」などと問いを重ねる。これらに対していくら真面目に返答しても、言語のみでのやり取りであれば、話が進展しないまま、それこそ無限にやり取りができてしまうのだ。

このような滑稽なやり取りはまさしく、文脈を共有せず、”言葉だけで” コミュニケーションができるという思い込みから生じてしまうものだ。このようにして考えてみると、日常のコミュニケーションは言葉そのものよりも、その文脈にかなり大きく頼っていることに気づくだろう。

日常のコミュニケーションの中で「犬が好き」と言われて「そもそもあなたは実在するのか?」と返すのはバカげている。では、私たちがそれをバカげていると直感できるのはなぜか? それは、コミュニケーションの背後に「文脈」としての「共同体」があるからだ。ここでようやく、「つながり」に話を戻そう。

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─ 共同体に見つめられる日常

人間は「言語ゲーム」の中でコミュニケーションをとる。しかし、そのコミュニケーションに参加しているのは、やりとりをする者たちだけとは限らない。そこには常に、目に見えない第三者がつきまとう。その第三者とは、彼らが所属している共同体である。私たちは意識的にであれ、無意識的にであれ、この共同体の立ち会いのもとに、コミュニケーションをとるのだ。

私たちはふつう、会社の上司や友人に、先ほどの “クソリプ” のような応答をしたり、「石をひろってきて」と言われてネコを連れてきたりはしない。そんなことをすれば、周りから奇人のレッテルを貼られ、排除されることは明らかだからだ。しかし、もし「石を拾ってきて」と言われた際に、だれもがネコを連れてくるとすれば、どうだろうか? そのような中では「石を拾う」という言葉はネコを拾うという意味として定着する。そこで「石を拾ってきて」と言われてネコを連れてきた人に対して、「それは違う!俺は河原の石を拾ってこいという意味で言ったんだ!」と言っても、その主張は成立しない。なぜならば、それまでに第三者による実例があり、それによって意味が定着しているからだ。

このように、「言語ゲーム」は多数の第三者が存在することで成立する。二人きりの会話の場にも、見えない他者は常に存在している。日常の中で、私たちは常に共同体からの “視線” を感じて、自分の言動をコントロールしている。「言語ゲーム」に支えられたコミュニケーションの中で、共同体はいわば審判や観客のような役割を果たしているのだ。

この審判や観客の存在は、「言語ゲーム」の安定に欠かせない。ゲームは審判、観客といったプレイヤー以外の第三者がいてこそ安定するからだ。もし、彼らがいなければ、プレイヤー達は好き勝手にルールを変えたり、唐突にゲームを終えたりするだろう。そうした刹那的なゲームではコミュニケーションは安定しない。だから人々は、言葉でコミュニケーションをする限り、共同体という「つながり」を持たざるを得ないのだ。

しかしこれは、当然といえば当然のことだ。そもそも言葉は文化が生むものであり、文化は共同体の中で作られる。共同体を否定することは文化を否定すること、ひいては言語の否定につながるため、自己矛盾でしかない。共同体が私たちを縛り付ける窮屈なものであるからといって嫌っても、人が日常生活において言葉をあやつる以上、そこから離れることはできないのだ。こうしてみると、言語、共同体、つながりの緩やかながら本質的な繋がりが見えてきたであろう。

しかし、ここで疑問に思う人もいるだろう。果たして、私たちの生は、たまたま生まれ落ちた共同体にいつまでも縛られ続けるものだろうか、と。もちろん、そうではない。前回の序文で触れたように、「居場所」は開かれており、拡張可能なものである。であるならば、その「居場所」の源泉である「共同体」もまた同じく、拡張可能なものであるというのは当然の帰結だ。その拡張可能性を支えているのは、やはり「錯覚」である。そこで、次回からはいよいよ本格的に、共同体のコアである「錯覚」に切り込むことになる。

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─ 書き換えられる共同体と「死」

私たちは所属している共同体を書き換えることができる。仲間であったデッドの死を悲しみ、共同体の “視線” に怯えて涙を流しながら遺体を撮影した青年も、カリスマ・ユーロニモスとは別の道を生きる可能性があったのだ。

そこで参考になるのが、まずは東浩紀の「訂正可能性の哲学」(ゲンロン12)である。実は、今回の言語と共同体の話はこの論考の内容をかなり援用している。しかし、まだこの「訂正可能性の哲学」のもっとも重要なエッセンスには触れていない。訂正可能性こそ、共同体のメカニズムのより本質を説明するカギとなる。その説明は、次回にしよう。

そしてもう一つ、共同体のメカニズムの解明に欠かせないものがある。

それは古今東西、人類共通の深い悩みの種であり続けている。それはまるで、静電気を帯びたサランラップのように私たちの生にまとわりつき、いくら振りほどいても離れない。人類は永遠にこの不安から逃れられないのかもしれない。

そう、「死」だ。

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