注:
本稿は結城夏嶺による連載『錯覚の哲学』の最新稿です。
以下の文章は著者の希望により、一切の編集を加えずに公開しております。
・2023.7.21
・2023.7.21
昔から文章を書くことが好きじゃなかった。本当に面倒なことだから。特に、誰に向けて書いているのかよく分からないような、「読者の顔」が浮かばないような状態で文章を書くのが苦痛だ。ただでさえ面倒なのに、「見えない人」のために文章をあれこれと考えているのは、まるで誰もいない暗闇に向かってパンチを繰り出しているかのような虚しさがある。
とある作家が、文章を書くことの報酬は文章を書くことだ、というようなことを言っていてカッコいいと思ったが、同時に私には到底、不可能な境地だとも思った。私には、書いているだけで楽しいみたいな感性がまるでない。こんな人には作家としての適性はないのだろう。
では、誰かに読んでもらえればそれでいいのかというと、そうでもない。自分の文章に対する「良かった」とか「面白かった」みたいな感想を聞いても「ふ〜ん」としか思わない。ポジティブな意味もネガティブな意味もなく、単なる「ふ〜ん」だ。文章を読んでもその人の生き方や考え方が何も変わらないのであれば、それは”無”なんじゃないかと思うから。(スポーツ選手の活躍を見て「感動した!」と言った人が、その後の生き方を何も変えてないのを目の当たりにしてしまったら冷めてしまうようなものか?)
結局、私は言葉そのものでなく、言葉を使ってどのような”言語ゲーム”が生まれるのかに関心がある。それが思想の言葉なら、なおさらそうだ。思想は人を変えるためにあるものであり、鑑賞するための「作品」ではないと思っている。だからなんの”言語ゲーム”も生み出さない思想の言葉は死体のようなものであり、私には死体を愛でるような趣味はない。
・2023.7.23
“言語ゲーム”という概念は、哲学者・ウィトゲンシュタインが作り出した。
言葉それ自体には、必ずこう解釈しなければならないというルールは無い。人のコミュニケーションとは、表情、身振り手振り、空気感、その他の様々な文脈や環境を考慮しながらその都度、解釈が変わる”ゲーム”のようなものだからだ。ウィトゲンシュタインは、そのような人の言語コミュニケーションのあり方を”言語ゲーム”と呼んだ。
「自由」という言葉がどんな意味を持つかは人によって違う。「バカ」という言葉は文脈によって悪口にも、褒め言葉にもなる。中指を立てて「愛してる」と言えば……
言葉を使ったコミュニケーションには、ルールが有るようで無い。もしくは、無いようで有る。それでコミュニケーションは成立してしまう。そんな”言語ゲーム”のおかげで、私たちは色んな人とコミュニケーションができるし、思いもよらないコミュニケーションも生まれる。それで人は変わることがある。そのような可能性がある”言語ゲーム”を面白いと思う。もっと知りたいと思う。
でも、残念ながら”言語ゲーム”は面白いものばかりではない。むしろ、そのほとんどは定型的でつまらないものだ。
・2023.7.24
家庭で、学校で、会社で様々な”言語ゲーム”を学んできた。もし言葉を字面通りにしか受け取れないのであれば、コミュニケーションに不具合が生じる。
「必ず」とか「絶対」という言葉は、100%という意味ではなく、せいぜい強調するために言っているのだという程度に受け止めておいた方がいい。「やる気がないなら帰れ!」と言われて本当に帰ってはいけない。「人それぞれだから」というのは大抵、自分に利害関係が無い場合に限るということを念頭に置く必要がある。
・2023.7.30
私たちは言葉を通じて振る舞いを、他人の気持ちを知る術を学んでいく。けれど、いつのまにか言葉は機械的に再生産されるようになり、単なる「背景」になる。私たちは、その「背景」に合った振る舞いを、他人との関わり方をするようになる。きっとそうなる。
失恋したり、職場で厳しく叱責されたときにはしこたま酒を飲んで云々……みたいな話を聞いて、どこかで聞いたような悲しみ方だなと思ってしまった。知らないうちにどこかから、そう悲しむように刷り込まれたのだろう。親からか、先生からか、先輩からか、アニメからか、映画からか。とにかく、そう悲しめばよいのだと教わる。「悲しむ」とは、そのようなものだと。
・2023.8.3
人は、自分の感情への向き合い方も”言語ゲーム”を通じて学んでいく。
悲しいときには泣くしかなかった赤ん坊の頃があった。そうした欲求のレベルを超えた、色んな悲しみ方を学んだ。悲しみをぐっとこらえる。悲しさを他人と共有する。悲しいときには、笑う。これらを学ぶプロセスのどこかに、” 言語ゲーム”が紛れ込んでいる。それを思い出せないのは、単に忘れているだけだ。かくいう私も忘れていた。泣くことを我慢して親に褒められたことを。会ったばかりの人に辛いことを打ち明けて気持ちが楽になったことを。大好きな架空の人物や音楽から、悲しさを紛らわせる様々な知恵を教えてもらったことを。
・2023.8.4
もううろ覚えなのだが、ある人が言ったとある男女の痴話喧嘩の話を思い出した。
アパートの隣室の一組の男女が喧嘩を始めた。壁が薄いので、会話が丸聞こえである。喧嘩はヒートアップしていき、そのうち女が包丁を持ち出して男を脅してきた。そこで男は「刺すなら刺せ!」と叫んだ。その後、すぐに包丁が壁に突き刺さる音がして静まり返り、喧嘩は終わった。
この一連のやりとりを聞いていたその人は、男の「刺すなら刺せ!」という言葉に衝撃を受けたらしい。自分の最期の言葉になるかもしれないのに、そんなドラマのセリフみたいなステレオタイプの言葉が出てくるとは。それでは何かのコピーではない「自分だけの言葉」とは一体なんなのか、どうすればそんな言葉を出せるのか。そう思い悩んだという。
私は自分なりの悲しみ方を探求した。それで悲しみの底にぶち当たるまで徹底的に悲しむことにした。誰にも打ち明けずに、あえて悲しい音楽や映像を視聴し、いい感じのムードを作る。自分がなぜ、どのように悲しいのかを言語化する。そうして悲しさを彫刻していけば、自分だけの「悲しみ」という彫像ができる。感情はぼんやりしていて捉えどころがないが、自分なりに形にできればやりようはある。「自分だけの言葉」の萌芽ができる。
・2023.8.9
「悲しみ」を愛でるときには、いつも昔のことを思い出す。私にとって、悲しみは過去を志向させる感情らしい。もしかしたら、人類から悲しみという感情を消してしまえば、人は過去を、歴史を顧みない生き物になるのかもしれない。
・2023.8.14
会社での仕事は、誰かの役に立とうとしなくても結果的に役に立っているものであり、それはとても健全なものだ。役に立とうという意識が先行した瞬間、あらゆることが窮屈になり、ストレスになるから私にはそのくらいのテンションで物事をやるのが性に合っている。
ここに書かれている文章もなにかの役に立つものとして書いてはいないので、何も期待しないでもらいたい。もし、役に立つものしか読みたくないというのであれば、申し訳ないが、ここらへんで読むのを止めて回れ右をしてもらうしかない。ここは私の「領土」であり、全てに「※個人の感想です」という注意書きがつきます。
私たちは人間である以上、絶対的な真実なんてものを知ることはできないのは確かだが、それでもこの世界を「確信」しながら生きている。
「この世界が本物なのか夢なのかを判断することなどできない」と息巻くような「哲学オタク」も高層ビルの屋上から飛び降りることはできない。そんなことをしたら絶対に死ぬと「確信」しているからだ。また、大事なものを目の前で盗まれたら猛然と犯人を追いかけるだろう。そこで今、追いかけているこの犯人は実在するのか?などとは考えない。犯人の姿、あと2メートル、急いで追いかけて手を伸ばせば届く、とっ捕まえて警察に突き出してやる。
「確信」の嵐である。
大事なのは、哲学者の竹田青嗣が言うように、私たち人間がどのようにこの世界を確信しているのかという「確信成立の条件」を探ることだ。人はどういうときに相手に伝わったと確信するのか。どうすれば物の存在を確信するのか。なぜ自分の無意識に気付いたと確信できるのか。
「人それぞれだから」とか「人は他人のことを完全に分かるなんてことはない」と言われる。それは実際にそうなのだが、それでも人は他人のことを分かったと確信してしまうことがあるし、そうせざるを得ない。ではなぜ、どういうときに人はそのような確信をするのか。そうした「確信」が成立するための条件を知ることで不毛な「哲学的議論」を脱し、私たちの日常に生きた哲学をつくれる。
また、確信はあくまでも確信なので、訂正されることがある。会話で意味が伝わったと確信していたが、相手の表情を見てそうでなかったと訂正する。カフェオレだと確信していたが、飲んでみたら麦茶だったと訂正する。そのようなことは日常茶飯事だ。確信は常に訂正されうるものであるが、だからこそ人はより良い方向へと向かえる可能性がある。
私たちは「確信成立の条件」を土台にして、より良い人生や社会に向かうための’’言語ゲーム”を営むことを考えなければならない。そのための哲学が必要とされている。
まあ要するに、哲学は一部の「哲学オタク」が鑑賞して楽しむためだけにあるのではなく、人間がどう生きるのかを考えるためにもあるという原点に立ち返りたいというだけのことだが。
私は、絶対的な真理の存在を謳ったり、真理なんてものはないのだからこの世界は無であるみたいなことを宣うのは哲学というより、鑑賞するための現代アート作品みたいなもんだと思っている。
・2023.8.15
少し調べてみると、ある界隈では竹田青嗣は「絶対的な真理があることを主張する哲学者」ということになっているらしい。
傑作だ。
イチローは水泳選手ではないし、Mr.Childrenはサッカーチームではないし、バラク・オバマは中国の政治家ではない。こんなことは知らなくても少し調べればすぐに分かることである。
・2023.8.17
「役に立つ」というのは、すでに知っている知識・経験からプラスになると判断できるものに対して言うものだ。完全にどうなるか分からない未知のものに対して「役に立つ」とは言えない。だから人生の悩みはいつも難しい。人生の悩みに役立つものが事前に分かっていれば誰も苦労はしないから。役に立ったかどうかは実際に問題が解決してから、つまり事後的にしか分からない。
しかし、かといって開き直って役に立たないことばかりしようとするのも考えものだ。自分はあえて役に立たないことをするのだ、それこそがカッコいいのだという半端な”イキり”は大抵、ろくなことにはならない。
実力が伴わないイキりが許されるのは若いうちだけである。若い時は「下駄」を履かせてもらっているから。もしかしたらその下駄は自分の身長よりも高いのかもしれないが。若い頃には許されていたことが、歳を取ってからは許されなくなる。若い頃にはカッコいいと言われていたことが歳を取ってからはダサいと言われるようになる。そのことに気付いた頃にはもう手遅れかもしれず、これもまた事後的にしか分からない。
・2023.8.19
天邪鬼のふりをして生きていたら、本当に天邪鬼になってしまった。こうなってしまったキッカケは色々あっただろうが、もはやどうでもいい。それらのキッカケとやらは溶けて、すでに私の性格となってしまったから。今となってはそれらはもう私の手を離れており、自分でどうにかしようとしても難しい。
・2023.8.24
朝の通勤電車の中で自分の過去を振り返ってみるに、「真面目」とは無縁の人生だったな、と思う。とにかく不真面目だった。さすがにこれはやらないと本当にヤバい、というものもサボってしまう。おかげで何度も人生の危機があった。それでもなんとかやれている、というかなんとかしてきたが、人生で何事かを成すためにはやはり「真面目」さは必要だ。
実は私には、何事かを成したいという欲望がある。無欲な人間にはなれなかった。けれど、真面目な人間にもなれなかった。
一言で「真面目」といっても色んな要素がある。だから、「真面目」とは何かを、色んな似た意味の言葉で言い換えられる。誠実である、融通が利かない、本気である、計画的である、継続している、etc.
なぜこのような似た意味をもつ言葉の連想ゲームができるのかというと、言葉は曖昧だからだ。曖昧だから一つの言葉にもたくさんの意味、ニュアンスがある。それでタコ足配線のように別の似た言葉を繋げられる。だから同じ言葉をポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも使える。また、何かを表現しようしても、あれこれと別の似たような言葉が出てきて上手く言えず、もどかしい思いをすることがあるのもこのせいだ。しかし考えようによっては、この曖昧性のおかげで逆転の発想ができる。
私は確かに真面目な人間ではない。けれどもし、「真面目」という言葉に含まれる様々な要素のどれかをうまく自分なりに彫刻できたら、自分だけの「真面目」という彫像を作れるかもしれない。そうすれば、”実は”自分にも真面目なところがあったのだと、意外な「真面目」を発見できるのかもしれないし、それが今後の人生にも生きるかもしれない。
私だけの、私にとって大事な「真面目」とは何か?
先ほど「真面目」に似た言葉の連想ゲームをしたが、その中の「継続している」がとくに気になった。人は一時的になら、誠実にも本気にも計画的にもなれる。けれど何よりも、継続することは難しい。
水の入った一杯のコップを持つことは容易いが、それを一生こぼさずに持ち続けられますか?
電車を降りて改札を出た。天気は晴れ。それはもうすでに分かっていた。今朝、目覚めた時から。けれど実際に太陽の光を浴び、風と匂いを感じると「ああ、晴れなんだ」と”改めて”実感する。その感覚は何度、体験してもそのたびに新鮮に感じられるから驚きだ。だから人々は飽きもせず、繰り返し何度も暑いだの寒いだのと天気の話をできるのだろう。
スーツ姿のたくさんの真面目な人たちがいた。私はそれらに歩調を合わせてついていった。
・2023.8.26
不意に、こんな言葉が頭に浮かんできたので急いでメモをした。
「なにか物事を継続するにあたって、途中でやめてしまっても構わない。また再開すれば、後になってちゃんと続けていたことになるから」
誰かに言われた言葉なのか、それとも自分で思いついた言葉なのかは分からないが、いい言葉だと思った。救われる気がする。こういう言葉を必要としている人に、必要としているタイミングで届けられるのが自分の血肉になった「身体化」された言葉ってやつなのだろう。自分の言いたいことを言いたい時に放言しているだけでは、言葉は自分の一部にならない。
他者との関係性において言葉を実践すること。’’言語ゲーム”を営むこと。それが「自分だけの言葉」の萌芽を育てるということであり、哲学はそのための手助けをするものだと信じている。
・2023.8.29
考えてみると、人は過去を振り返るときに時間の流れをすごく大雑把に捉えるようになる気がする。
「この1ヶ月間、ずっと悲しかった」という言い方はとくに変ではないし、ふつうに使うが、本当に24時間×30日間=720時間もの間ずっと悲しんでいたのかというと、そうではないはずだ。人は一つの感情をずっと維持することはできない。とてつもなく悲しい気持ちになっても、楽しいことがあれば楽しい気持ちにもなるし、別に何もなくても感情は変化する。そもそも悲しさの中にも色んな感情が紛れ込んでいるだろう。リアルタイムであれば、現在進行形でこうした自分の感情の変化に敏感になれる。けれど、人は時間が経ち、過去を振り返る時にはそういう細かいことを気にしなくなる。
一日のうち、悲しい気持ちになったのは2、3時間程度でもいい。それどころか0時間の日があってもいい。それでも後になって振り返った時に、この1ヶ月間は’’ずっと’’悲しかったと言える。本当はそんなことないのに、そう言えてしまう。これは1年、10年と期間が長くなっても変わらないし、むしろ長い方がいいときもあるかもしれない。
このように、断続的に悲しい時間があったり無かったりしても、それなりの期間があれば人は’’事後的に’’「ずっと悲しかった」という継続性を見出すことができる。まさしく、やめてもまた再開すればいいわけだ。
一杯のコップをなにもバカ正直に持ち続ける必要はない。手放してもいい。また持てる時に持てばいい。それを長い期間、繰り返せばいい。そうしていれば、後になって続けていたことになる。人が何かを継続するとはこういうことであり、継続性は事後的に「捏造」されるものだ。
・2023.8.30
「初心を忘れない」と願う。けれど、何度も忘れる。そのたびに何度も初心を思い出す。この繰り返しこそが、「初心を忘れない」ということだ。だから、初心を忘れること自体は何も問題ではない。本当に大事なのは、忘れた後にどうやって思い出すかだ。
・2023.8.31
有名人や成功者が自分は”ずっと”こういう生き方をしてきたからここまで来れたんだと言うのも、正確には噓だ。本当は諦めたり、そこまで努力してなかったり、中断してた時期もある。けれど、成功できたというストーリーがあるから、それを説明するために”ずっと”そうし続けてきたと言う。話を聴く側も、納得感のあるストーリーであれば、別に違和感を感じない。
私は、継続性は事後的に「捏造」されるものだと書いたが、そのために重要なのは、人が納得できるような物語=ストーリーだ。
(右) カニッサの三角形
(左) 別冊日経サイエンス123・心のミステリー, 1998, p. 34
人はこのような図を見たときに、無意識に書かれていない隙間を埋めようとする。説得力のある物語は、この隙間を埋めてくれる。継続性を「捏造」し、自分の人生がどのようなものであったかを説明してくれる。
が、問題はどうやってそのような物語をつくるかだ。
・2023.9.4
会社で資料を作っている時に、いつも愛用している7色の付箋がある。今日はその色の並びを見ているときにふと、黄色、黄緑、緑の色の並びが気になった。黄色と緑はハッキリと違う色だと思う。けれど、この間に黄緑を挟むと黄色、黄緑、緑はグラデーションとなり、実は黄色と緑は似ているところがあるんじゃないかと思えてくる。
黄緑はその名の通り、黄色とも緑とも似ている色だ。それが間に入ることによって一見、無関係な二つの色が繋がる。類似性が異なる二つのものを繋げる。
仕事をしながら、ずっとこのことを考えていた。
過去にあった様々な出来事。一見、バラバラなそれらを結ぶ手がかりとなるような似ているもの。それが見つかれば、無関係だった出来事も繋がって物語となり、人生に一貫性、継続性を「捏造」できる。そのような類似性をどうやって見つけようか。
ごちゃごちゃと考えているうちに、会議の時間が近くなったので資料を出席者数分、印刷して会議室に向かった。資料はいつも通り、バッチリ作ってある。あとはそれを配って発表するだけ。いつもやっていることだ。
と思っていたのだが、会議で発表中、資料に誤植を見つけてしまった。しかもかなり致命的なやつだ。本来は、これからの時代は製品=モノではなく、体験=コトを提供する方向にシフトしなければならないという趣旨のことを書きたかったのだが、たった一文の誤植のせいで、あえて製品=モノを推していくべきだという趣旨の資料になってしまっていた。資料を作っている時に余計なことを考えてたからか……
かなり焦った。課長も部長も真剣な表情で資料を読んでいる。後戻りはできない。もう出任せを言うしかなかった。
「現代では確かに、製品=モノよりも体験=コトが求められる時代である。けれどその結果、自分の体験をSNSにアップして「いいね」をもらうことに奔走し、疲弊している人たちが続出している。体験は確かに素晴らしいものだが、それだけだと形に残らないから刹那的なコミュニケーションになりやすく、消費サイクルも早くなって付いていくのに疲れてしまう。一方、製品はもし、購入するだけで終わりにするなら体験同様、刹那的な消費にしかならないが、これに体験を付与することができれば持続可能性が生まれる。例えば、特定のランニングシューズを買った人たちだけが参加できるランニング大会や栄養管理講座を開催したり、ベビーウェアを買った人たちだけが参加できる有名ママタレントの講演会や食事会を開催する。こうすることで、その製品と結びついたコミュニティが生まれ、会社と家庭とは異なる別の人間関係ができる。ランニングシューズを買う人はランニングが好きだろうし、ベビーウェアを買う人は子育てをするのだろう。このように、製品にはそれぞれ目的や趣味趣向が明確にあるので、それを通じて共通の話題で繋がれる体験を提供できる。また、こうしたことを継続していけば、消費者たちはその製品に対して思い入れや愛着を持つようになり、それが結果的に「ブランド」となってさらに消費者たちに特別な体験=コトを提供するだろう。これがモノを通じたコトの提供である。私たちはモノかコトか、といった二者択一的な考えをするのではなく、実はモノにもコトの要素があるのだということに気づく必要がある。そして結局のところ、体験=コトとは人の思い出のことであり、それをいかにモノに組み込むのかを考える戦略が大事なのではないか」
手が震えそうになりながら、確かこんな感じのことを言ったと思う。そして、上手くいったと確信した。その場にいた人たちの顔つきが変わり、食い入るように私の話を聴いていたからだ。発表が終わったとき、みんなが拍手をし、是非とも具体的な企画として動かしたいと絶賛した。
そりゃ結構なことだが、私はもう二度とこんな体験はしたくないと思った。これから仕事が増えそうなのも面倒くさい。
・2023.9.5
昨日の会議のことを考えていた。モノにコトを組み込むという話。出任せだが、よく出来ていたと思う。なぜこんな話ができたのか。会議中にも言ったが、モノにあるコトの要素を見つけ出したからだ。そして両者を結びつけたのは「思い出」というキーワードだ。思い出は、製品にだってある。何の変哲もない物にだって、そこに色んな思い出が詰まっていて、物そのものが思い出になっていることなんてよくあることだ。それをなんとか言語化することで、納得してもらうことができた。モノ(黄色)とコト(緑)を思い出(黄緑)で結んだ。それでモノとコトに類似性を見出した。言葉が使える人間だからできることだろう。そう、人は言葉を使えるから、他の動物よりも高度な類似性を見出すことができる。言葉によって類似性を「捏造」できる。そのおかげで会議を乗り切れるプレゼン=物語をつくれたというわけだ。ありがたや。
・2023.9.7
・2023.9.7
どうもこういうことを書いていると、私のことを心優しい人だと思う人がけっこういる。会社でも私が丁寧に書いたメールや資料を読んで、そう思う人がいる。そんな人たちを見るたびに、人を騙すのは意外と簡単だなと思う。私がこういうのを書いているのは、優しいからとかではなく、単に気になってしまうからです。気になることを放置せず、説明が必要だと思ったところは補足する。それは決して優しさからではありません。毎日、風呂に入ったり、歯を磨いたりしないと気になるでしょう? それと同じことなんです。ある種の神経質さから来ているもの。ただそれだけ。
これまで、私のことを心優しい「お母さん」だと思って接触してくる人は何人かいたが、ことごとく絶縁している。私はみんなの「お母さん」でもなければ、道徳の先生でもありません。みなさんと同じ、ふつうの人間です。